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apo (id:MANGAMEGAMONDO) が妄想を吐き出していきます。

ライプツィヒ・天使の詩(2)

ドイツの天使は翔ばない。ゆっくり、だけど確実に歩み寄る

教会のパンフレットによれば、ライプツィヒの聖ニコライ教会の歴史は古く、起源は12世紀にさかのぼる。聖ニコライ(ニクラウス)は商業の守護聖人で、スパイス貿易で栄えたニュルンベルク同様、東西南北の街道が交差するライプツィヒも貿易都市として栄えた。さらに、近郊で銀山が発見されたことで拍車がかかる。聖ニコライはライプツィヒ守護聖人となり、教会が商業地区のど真ん中に建てられた。ちなみに聖ニコライはサンタ・クロース(サンタ・ニクラウス)にも由来するともいわれる。

聖ニコライ教会は“offen fur alle(すべての人に門は開かれる)”のとおり、各地から訪れる人々に門戸を開いてきた。ドイツ人はおろか、たとえクリスチャンでなくても、閉ざされることはなかったという。建設された当初はロマネスク様式、16世紀にはゴシック様式に、ついで18世紀にはバロック様式の塔を増築と時代によって姿を変えてきた。内部はパステルカラーのフランス風で、柱の彫刻は南洋を思わせるシュロの木がモチーフになっていて、壁にはフランス王室のシンボルであるユリの花の紋章がちりばめられている。職人芸をこれでもかといわんばかりに見せつけるステンドグラスは窓にない。そのかわり、溢れんばかりの陽光がパステル調の室内を明るく照らす。そんな明るい天井のドームに、18世紀に描かれた天使が舞う。

ここで描かれているのは原罪ではなく、人の子として生まれたイエスの神性だ。罪を振り返るより己の神性を高めよ、それが人の、神の子としての務めである、と教会は人を喚起する。そんな神の家であることを訪れた者すべてに思い出させる。

1980年代の初め、日本ではパステルカラーの不思議系がカラスルックにとって代わった頃、ライプツィヒの聖ニコライ教会では月曜集会が始まった。きっかけになったのは西ドイツの軍備拡張だったが、対話のテーマは、平和、環境、経済格差、貧者救済と広がっていき、当時の東ドイツ政府へ抵抗する、大小さまざまの、意見や立場の異なるグループが集う場となっていった。さらには、体制派であるドイツ社会統一党(SED)党員や秘密警察(シュタージ)にも参加者が現れる。彼らにすら、聖ニコライ教会の門が閉ざされることは決してなかったという。

ところが1989年、東ドイツからの脱出希望者の増加に伴い、聖ニコライ教会そのものが“反革命的(違法な)”象徴としてマークされ、ついに公安の武力的な包囲によって多くの逮捕者を出すことになる。それでも、真実を真実として異なる立場で対話する集会は続いた。やがて聖ニコライ教会における人々の活動はライプツィヒ市民の賛同を得て、“(フィジカルな)力によらない抵抗”が市民の間にも広がっていった。

ついに政府は、“反革命的な”聖ニコライ教会の郊外への移転を決定し、圧力を強めていった。さまざまな異なる立場の市民で満たされた教会に、ついに10月9日、政府による武力鎮圧・介入が始まる。その日、そのときも、教会内には体制に命ぜられた任務を持つSED党員やシュタージがいた。対話の末、彼らは任務を放棄し、市民との連帯を自らの意思によって決意する。しかし、多くの武器を持たざる人々は、逮捕、監禁され、多くの血が流された。

政府による武力鎮圧と同時に、教会への道は封鎖されたが、広場にはろうそくを両の手に携えた市民が集まっていた。炎が消えないようにろうそくを持てば、武器は握れない。それでも、抵抗はする。服従はしない――そのメッセージは、ライプツィヒから東ドイツ全土、さらに西ドイツへと伝わり、やがて、ベルリンの壁を打ち崩す波となった。

ハノーファーからライプツィヒへ向かうアウトバーンを走っていると、その平坦な大地に、まるで森のように風力発電の風車が林立する奇妙な光景が続く。何%だか忘れたが、この平坦な大地を吹き抜けてゆく風の力によって発電される電力によって、ドイツのエネルギーの少なくない部分がまかなわれていると、ハノーファーの人が教えてくれた。吹き抜けるのは風だけではない。ハノーファーのランドマークになっているテレビ塔がカバーする範囲は、遠くベルリンにまで及ぶ。伝わっていく波を遮るものはない。

ニュルンベルクの人は言った。「旧東ドイツ政府は西側の情報をできるだけ規制しようとしていた。けれど、どんなに封鎖してみても無理なんだ。ゆっくり、だけど確実に、情報は伝わる。最後はそれが東西ベルリンの壁の崩壊につながった」。

どんなに波をつぶしても、それを止めることはできない。

今日、明日、その効果は飛躍的には見えないかもしれない。だが、ゆっくり、だけど確実にその力は作用する。人も神の子、つまりは自然の一部――風、あるいは波と同じように。ライプツィヒの天使に祝福された力は、日の目を見るまでに10年かかった。

南ドイツでIQ5000くらいありそうなススんだリベラルなソーシャリストのインテリに会った。その人は「キミとの会話には論点がない、わかる? 意味がないってゆってんだよ」と吐き捨てて、立ち去った。別に怒らせたわけじゃない。信じるものが違っただけだ。しかも、飲んでるときに万人ウケする会話なんか(しかも英語で)できるはずもないけど(まあ、素面のときだってかなりアヤシイっていうのに)。脳が虚弱体質のアタクシ的には「ツマンネーヨ」と言われるほうが100万倍マシだ。自慢じゃないけど、それなら言われ慣れてるし。以前、ちょいとご機嫌ナナメだったとき、ちょいとそこらの手ごろなオヤジを捕まえて凹まして(考えてみれば悪いコトをした)「たしかにネエちゃんの言うのは正論だよ、でもサ、正論が正しいってワケじゃないだろ? ツマンナイんだよ」と酒場で叱られた。だけど、こんなシチュエーションなら「悪かった。じゃあ、罪のない下ネタでも」とスウィッチすることだってできる(実際、そうした)。でも「意味がねー」って打ち切られたらおしまいだ。それこそ救いがない。

1980年代、反体制派も体制派もキリスト教徒も異教徒も、そして多くの野次馬をも飲み込んだ、天使の見下ろすライプツィヒの聖ニコライ教会でも、多くの人が論点を見つけられずにいた――ある者は「もうこの国は終わりだ。生き延びるために国を出る」と言い、別の者は「何であろうと、祖国だ。ここに留まるべきだ」と主張した――行くべきか、行かざるべきかという最大のギャップを乗り越えられないまま、それでもそのとき残った人々は連帯し、抵抗し、血を流し、そしてやがて大きなうねりを生んだ。党の独裁支配はそれによって終わる。体制側の公安をも対話の中に引き入れ、組み込み、撤収させるに至ったからだ。

それを、風の力、波の力に勝るとも劣らない、人が、自然=神の創造物の一部であるという奇蹟と呼んではいけないだろうか。

ドイツで、古い教会をはじめ、歴史的な建造物を訪ねれば、第二次世界大戦戦中・戦後の写真や記録に多く触れるチャンスがある。とくに今は。ニュルンベルクでは、ワールドカップを開催しているフランケン・スタディオンの近くにナチが集会を開いていた場所がある。そこは今“ドキュメンタリー・センター”と呼ばれ、呪わしいドイツの過去の罪が公開されている。

それに引き換え、ライプツィヒの聖ニコライ教会のような人の可能性=神性を発揮した記録はほとんど広報されていないような気がする。公開されていないわけじゃないけど、罪と後悔と反省を意識しているほうが格段に多い。それが残念でならない。人が、ドイツが、祝福された存在であることを多くの人は知らない。だから同じ祝福された存在と見ることさえしなければ、許しあうことさえしない、のではないだろうか。

ライプツィヒで天使に逢って、わたしは安心した。たとえ愚かであっても、人には可能性があり、その力はゆっくり、けれど確実に結実する。

80年代の対話に参加することはできないけれど、当時の人々を祝福したのと同じ、パイプオルガンは聖ニコライ教会で17時から聞くことができる。観光の公開時間は17時までだけれども、教会内に留まっていれば、締め出されも追い出されもしない。その音を聞きながら、80年代のライプツィヒに思いを馳せて、教会を後にした。

玄関へ向かうと、日本で言えば“寺男”がそっと扉を開けてくれる。「ダンケ・シェーン(どうもありがとうございます)」「ビッテ・シェーン、チュース(どういたしまして。ではまた)」ホルヘ・カンポスのド派手ユニを着たカーニバルメイクの頭が悪そうな外人フットボールファンでも天使たちは再訪を許してくれる――ライプツィヒはそういう街だった。