[ _e_x_h_a_l_e_ ]

apo (id:MANGAMEGAMONDO) が妄想を吐き出していきます。

建鉾山


場所の確認はできたし、遺跡として発掘調査も古くから行われていた、が。現在、人が足を踏み入れている様子はない。建鉾山の東側の麓にある都々古山神社にいたっては、この荒れっぷりである。今度、時間があったら歩いてみようと思う。以下、掲示板にあった説明文。




古墳時代の東北地方最大の祭祀遺跡『建鉾山』

表郷村高木・三森地区に所在し、社川に向って舌状に張り出した標高402mの建鉾山の北山麓に位置する。建鉾山祭祀遺跡周辺は、第二次世界大戦以前から石製模造品の出土地として広く知られていた。この遺跡は、石川郡玉川村在住の首藤保之助氏によって確認され、昭和14年(1939)には首藤氏の報告によって、國学院大学・大場磐雄博士の現地調査が実施され、その結果祭祀遺跡と判断された。

建鉾山祭祀遺跡調査の動機は、昭和41年(1966)発行の『建鉾山』によると昭和31年(1956)11月に郡山市田村町正直遺跡調査の帰路、亀井正道、桐生典太郎・佐野大和の三氏が遺跡を訪れ、耕作によって次第に遺跡が破棄される様子を確認し、早急に調査の必要性を痛感したとある。発掘調査は、昭和32年度(1957)に三森地区(B)、翌年の33年度(1958)に高木地区(A)が計画された。建鉾山祭祀遺跡に関連するのは、高木地区の調査である。

高木地区(A)は、建鉾山の山麓に広がる緩斜面の狭い範囲で、山頂には建鉾石と呼ばれる巨石がある。地元の伝承ではヤマトタケルノミコトが東征に際し、山頂に鉾を立てて神に祭り、戦勝を祈願したという。この地区からは多量の石製模造品・金属製品・土師器などが出土している。その多くを占めている石製模造品は滑石製で、斧・鎌・刀子・鏡・勾玉・白玉・剣形品・有孔円盤等の種類がある。金属製品には青銅製儀鏡・鉄鉾・鉄刀・鉄剣などが、土師器は壷・杯・高杯などがある。これらの出土遺物は、古墳時代中期(5世紀中頃から後半)の年代が考えられている。

昭和32年(1957)の発掘調査は三森地区(B)を対象に、5本のトレンチを設定した。調査地点は西福寺の南東、平成10年度(1998)調査区の南側に位置する。この地点は、地元では古くから石製模造品の採集地として有名であった。調査の所見では遺跡として数多くの石製模造品が出土している。同時に(C)地点は、三森地区の槻の木として有名で、地元では月夜見桜と呼んでいる。月夜見桜は、一種の聖地として考えられ、伝承の存在や特別な地として認識されている。月夜見桜の名称の起源は、ヤマトタケルノミコトが東征に際して夜この地を通過した時に、樹木の精が月映えてあたかも満開の桜を見るようであったことや、藤原鎌足がこの樹木を詠じた和歌をつくったとも伝えられている。この地点には3本のトレンチを設定したが、竪穴住居跡を検出したのみである。その後、建鉾山祭祀遺跡は昭和41年(1966)発行の『建鉾山』以来、東北地方南部最大の祭祀遺跡として知られ、全国から訪れる研究者の数はしれない。

昭和から平成に年号が変わり、三森地区に村道三森・瀬ヶ野線バイパス建設と團場整備が計画された。このため表郷村教育委員会では、平成5〜9年度(1993〜1997)にかけて試掘・本調査と整理・報告書の発行を行った。

この発掘調査によって検出された遺構は竪穴住居跡38軒・柵囲遺構1ヶ所・大型周溝状遺構1ヶ所、三森館跡の溝跡2条などがある。さらに、平成10年度(1998)には、三森地区集会所建設に伴い発掘調査を実施し、3軒の竪穴住居跡と3基の土坑が検出された。古墳時代中期(5世紀中頃から後半)の遺構である。

これらの調査によって、不明瞭であった三森遺跡の一部が明らかにされた。検出された遺構の中では豪族居館跡・祭祀場、また周辺に分布する竪穴住居跡群が注目される。

なお、この遊歩道により建鉾山を縦走し、都々古和気神社・月夜見桜を経由して周回することができる。

白河市教育委員会