[ _e_x_h_a_l_e_ ]

apo (id:MANGAMEGAMONDO) が妄想を吐き出していきます。

サルベージ〜サイード関連


今はなくなってしまったkojinさんの鴨川だよりの「サイード死去」(追悼記事リンク集)のサルベージ。

イード死去

 

  • 『遠い場所の記憶』は感動しました。

 これほど長いあいだ孤独と不幸を味わったものの、最終的にはわたしは自分のことを幸福と考えるようになった。今では「ふさわしく」あること、しかるべきところに収まっている(たとえば、まさに本拠地にあるというような)ことは重要ではなく、望ましくないとさえ思えるようになってきた。あるべきところから外れ、さ迷いつづけるのがよい。決して家など所有せず、どのような場所にあっても(特にわたしが骨を埋めようとしているニューヨークのような都市では)決して過度にくつろぐようなことのないほうがよいのだ


自分は流れつづけるひとまとまりの潮流ではないか、とわたしはときおり感じることがある。堅牢な固体としての「自己」という概念、多くの人々があれほど重要性を持たせているアイデンティティというものよりも、わたしにはこちらの方が好ましい。これらの潮流は、人生におけるもろもろの主旋律のように、目覚めているあいだは流れつづけ、至高の状態においては相互に折り合いをつけたり調和させたりという努力も必要としない。それらは「離れて」おり、おそらくどこかずれているのだろうが、少なくともつねに動き続けている──時に応じて、場所に応じて、あらゆるたぐいの意外な組み合わせが変転していくという形を取りながら、かならずしも前進するわけではなく、ときには相互に反発しながら、ポリフォニックに、しかし中心旋律は不在のままに。これは自由のひとつのかたちである、とわたしは考えたい──たとえ完全にそう確信しているとはとてもいえないにせよ。この懐疑的傾向もまた、ずっと持ち続けたいとわたしが特に強く望んでいる主旋律の一つである。これほど多くの不協和音を人生に抱え込んだ結果、かえってわたしは、どこかぴったりこない、何かずれているというあり方の方を、あえて選ぶことを身につけたのである

http://home.att.ne.jp/sun/RUR55/J/OutOfPlace1.htm