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apo (id:MANGAMEGAMONDO) が妄想を吐き出していきます。

アルモドバルの現代受難劇「バッド・エデュケーション」

昨夜の強風で散らされる桜の花吹雪の中で、危うく魂が抜けそうになった。神田川の浅瀬には、白い血糊のように桜の花びらがぬらっと光っている。これが消えたあとには、浅瀬では70cm超はあるだろう墨色や緋色の鯉が何十匹と群れて、組んずほぐれつの繁殖行動を行うのを、夜明け前の飲み屋帰りに見かけるようになるだろう。

満開の菊の香に酔って、一瞬、魂が魂が抜けてしまった葛の葉姫は、我が子、童子丸の泣き声で我に返る。葛の葉は、白狐の姿になっていた。子どもに浅ましい正体を見せてしまったことを恥じた葛の葉は、筆をくわえると障子に「恋しくば 尋ね来てみよ 和泉なる信田の森の うらみ葛の葉」と書き残して消え去った。童子丸を連れて、父・安倍保名が泉州信田明神の森を訪ねると、葛の葉は狐の姿で夫と子の前に現れ「この子をお願いします」と知恵の珠を授ける。このあと童子丸、のちの安倍晴明は、超能力を発揮する。

スペインの鬼才・アルモドバル監督の「バッド・エデュケーション」は彼の半自伝だという。アタクシの最大関心事は、もちろんガエル君であるが、そう聞いて、半生がどのくらい描かれているのかというミーハーな好奇心も頭をもたげてきた。ガエル君に象徴される美人(男だとか女だとかはどーでもイイことだ)と、スキャンダラスな過去があったんだろう?とか。多くの場合、“自伝”は描かれるパターンは二つある。真実をよりハデにドラマティックにデコレーションするか、あるいはそのまま描くには抵抗があるほどのスキャンダラスな事実にオブラートをかけるか、美化するかして、飲み込みやすくする。

結果的にいえば、かなり正確なんだろうと想像する。ただし、セクハラや薬物中毒やトランスジェンダーやそういうことの一つ一つはただの符合でしかない。そういうことで描かれているのは、人間の持つありのままの罪深さだけれども、この映画でそれらが裁かれることはない。もちろん、キリスト教批判なんかでは断じてない。

もともとの動機がどうであれ(そもそも動機があったのかさえわからない)、人間の誰もが何かに深く執着し、のめり込む。劇中においては、許されない愛、むき出しの野心、忘れ得ぬ復讐心、成り上がりのチャンス、保身などに登場人物が夢中になるのと同じように、監督本人も、人間の本性をいろいろな形で描くことに対しての情熱を、止めることができない。そんな一つ一つの符合を利用して、人間の衝動的な浅ましさがイヤなくらい正確に描かれている。

アルモドバルはインタビューで、その姿を《リスクを冒して生き続ける》といい、誰もが《リスクを引き受けて》生きており、《映画製作も危ない綱渡り》だと語っている。

リスク(危険)を冒す=冒険を、止めさせよう、押しとどめようとする理性(事物を認識する力)は、神から最初に人間が相続したものだという。では、リスクを冒し続けるわたしたち人間は、神からますます遠ざかっているのか?

知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。(コリントの信徒への手紙一6:19-20)

パウロは快楽的で退廃的なコリントの、腐敗と分裂の危機にさらされている教会に宛てた手紙の中で、その状況を許容する信徒を激しく非難し、追放を要求する。これがのちに“破門”の根拠として用いられるようになった。
が、パウロは同時に神との和解を説いている。肉の欲求を満たすために、体を用いる「肉の奴隷」から解放されて霊的に自由になるために、自らの体を用いよ、と。そのために神に、人々は罪を問われることなく、キリストの命によってその罪はあがなわれた(=代価を払って買い取られた)のだ、と。

パンのみに生きる「肉の奴隷」から解放されて、神の栄光を現すこと、つまり人間が神の子として、神から継承されたDNAの存在を証明することとは、与えられた才能を発揮することにほかならない。それは、さまざまな形で、たとえば劇中でなら、誰をも幻惑してしまう美の力や、何をも止められない愛する力、あるいは映画を作り続ける力として、現れる。だが、そんな神性を発揮するには、小さな限界を超えるというリスクを冒さなくてはならず、失敗すれば受難が待ち受けている。その人らしく生きることは、まさに受難と背中合わせといっていい。しかし、そのリスクから避ければ、肉の奴隷。

この映画は、人間には、結果的に受難への道だけしか用意されていないのかもしれないという黙示録なのか、あるいは仮に、そうだとしても、人間のもつ神性は圧倒的な力としていかようにも現せるという福音なのか。しかし、桜吹雪ではなんとか我慢できたものの、ガエル君のあまりの美しさにサクっと魂を抜かれてしまったアタクシにとって、もはや、そんなことどっちだっていいや状態。すごく罪作りな映画だと思う。あまりにも罪作りなので、水曜日にもう一回観に行って、自分を懲らしめてきてやる予定。

ちなみに「バッド・エデュケーション」がスペインで公開されたのは、奇しくもマドリッドでの列車テロが起きたときだった。日本では、法皇の葬儀が行われた9日が初日である。引用した「コリントの信徒への手紙」の一節は、東京カテドラルでヨハネ・パウロ2世への献花をした折、献金箱の横にあった箱の中から、おみくじのように引き当てた紙にあった。