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apo (id:MANGAMEGAMONDO) が妄想を吐き出していきます。

グァテマラ日記(12)

首を切られたニワトリは、踊ったりしない

チチカステナンゴのことをもう一つ。ガイドのトーマスに連れて行ってもらったのにセレモニーを見逃したパスクアル・アバフの山*1に、日曜日の朝9時頃、帰る前に行ってみた。もしかしたら、見られるかと思って。くねくねした山道を登っていったら、ちょうど、花、ロウソク、お香などなどを持った老婆のサセルドーテ・マヤ、生きたニワトリを持った男性、その息子らしい少年のグループに追いついた。「Hola!」と挨拶したあと依頼者の男性に、「儀式を見せていただいてもいいですか?」と尋ねたら「どうぞ、どうぞ」ということなのでご同行させていただく。

何を拝んでもらうんですか?とか聞きたくなかったわけではないが、好奇心よりもお行儀を優先させる。物見遊山の観光客がどんなにこの山に集まっても、儀式は神聖だし、この家族がどんな重い悩みを抱えているかは想像がつかない。話したのは、写真を撮ってもいい?くらい。ほかのときと違い、さすがのグァテマラ人もこのときは口数が少ない。山の上では、警官二人と白人観光旅行客のご一行がいた。

ラミレス家のマードレ*2が施してくれたときと同じように、サセルドーテが丸く儀式に使う品々を並べている。チョコレートはない、でも花がある。それとトーマスが小さな缶詰を使うこともあると言った。「火をくべておいて熱で爆発させるんだ。ハデに爆発するほど“ブエン・スウェルテ(幸運)”ってことさ」。ニワトリも同じだ、という。「依頼者が男なら雌鳥、女なら雄鳥を生け贄にするんだ。首をチョン切ったあと、勢いよく踊るニワトリほどツキがあるってことさ。男と同じだな。なぜかって? そりゃあ、よく踊る男のほうが女がついてくるじゃないか」。このニワトリがよく踊るか踊らないかはわからないが、少年が頭をなでてやりながら近くの木にヒモで足をつないだ。しゃがみこんでたまに「クゥー」とか呟く以外、大人しい。

ローソクに火が点される。サセルドーテは山へ向かい、空へ向かい祈っているが、カクチケルかキチェか、インディヘナの言葉でまったく意味はわからない。儀式をみていたら、警官が寄ってきた。好奇心の強いグァテマラ人は、お巡りさんに限らず用事がない人はとりあえず話しかけてくる。ただ10年前と比べたら「チーナ(中国人)」といきなり言われることは少なくなった。このお巡りさん、ロサリオのように「中国人? それとも日本人?」と聞いてくる人も増えた。

余談だけれど、apoが人生において人種をネタにハッキリと蔑まれたことは1度しかない。それがここグァテマラでだった。メヒコから国境を越えて来たら、突然、バスも人も貧しくなった。両替屋から手渡された紙幣まで、脂と手垢がしみこんでヨレヨレなのだ。ただの1枚も新札かそれに近いものはない。すべてが“くたびれていた”。国境に近いウエウエテナンゴで、そんなグァテの空気に馴染めず、戸惑っていたapoは宿を決めると、とりあえず生活を感じるために街のメルカードへ向かった。観光向けではなく、毎日、住民がやってくる大きなメルカードだ。生きた肉、バラされた肉、色とりどりの野菜と果物、自家製の煙草の束、さまざまな種類の唐辛子や香辛料のなかを、買う人と売る人がごった返している。人いきれと食べ物の匂いと暑さとほこりとでむせかえるその中へ入っていく。

ショックだった。往き交う人のすべてが、apoの顔に目をやるなり「チーナ!!」と吐き捨てるのだ。ときには怒鳴りつけられる。値切ったどころかコミュニケーションすらまだの、ただ歩いているだけの相手に対して、まるで存在を拒絶するような、もしくは「余所者が入ったぞ」と警戒するようなアラームが鳴り響く。大人も子どもも男も女も、全員が全員「チーナ!!」と、あからさまに敵意と嫌悪感を投げつけてくる。今、ロサリオから「チーナ?」とやさしく尋ねられたような微笑む瞳も、あるいは「チニータ(中国娘ちゃん、みたいなニュアンス)」と声をかけてくるナンパ風味のお愛想もない。理解できない憎しみと怒りと蔑みに満ちたそんな“チーナの洗礼”が30分だか1時間だか続いた。最後は、メルカードの出口でだらけて座っていた6〜7歳くらいの少年だ。apoはコイツを捕まえると「私はチーナじゃない、ハポネサ(日本人)だ。わかるか?」と半ば八つ当たりぎみにこの洗礼名を拒否した。「知らない」というので、東アジアの地図を地面に書いて「いいか? ここが中国で、こっちが日本だ。私はこっちのこの島、日本から来た」と訴えた。頬が赤くなっているのが自分でもわかる。少年は少し困りながら「わかったよ、チーナ」と答えた。

その年、たしか95年だったと思う。けれど、そのときまだ10年も経たない、80年代半ばまでグァテマラではゲリラ化したインディヘナが政府によって虐殺されていた。惨劇の記憶はいまだ鮮明で、山の村々には「ここで何年何月何日に何百人が処刑された」と刻印がある、たいていは粗末な木造の大きな十字架があった。

それから10年たった今、ロサリオはじめグァテマラ人は日本人に好意的だ。「コンピュータに車にいろんな機械、日本人はホントに頭がイイ。グァテマラには日本企業の工場がいっぱいあるんだよ。ここから近いところにだってあるんだよ。親戚の誰かは日本の工場で働いてるよ」。あのときの“チーナの洗礼”は夢のようだ。「ホテルでも道案内でも必要だったら、電話してきて。ガイドに頼むと金がかかるからね。ボクに聞けばタダだからね」と携帯電話の番号をくれる。あーぁ、残念だったなあ、もうボッタクられたあとだよ、と小さく笑いあう。

ロサリオと話をしている間に、儀式は進んでいく。ローソクと花と香木の松明の前でひざまずく依頼者は上半身裸になり、サセルドーテが聖水で濡らした木の枝で彼の体を打つ。祈りの声が高くなる。そしてニワトリの登場になった。

松明の上に何度かニワトリを掲げる。そして、光るナイフを取り出すと、頸動脈あたりに当てられ、ニワトリはあっという間に絶命する。ただの一声あげることもなければ、ましてトーマスが言っていたように踊りだすこともなかった。静かに、こちらの世界からあちらの世界へニワトリが贈られた。首を切り離されると、その血が火にかけられる。ときどき思い出したように、炎が大きくなる。そこに何の残虐性も感じられなかった*3。この依頼者のために、ニワトリの命が静かに連れて行かれた。

その血をすべて炎が飲んでしまったあと、ニワトリの体が火にくべられる。肉の焼けてくる匂いがする頃には儀式が終了する。ちなみにこのニワトリは、この場にこのまま残される。ロサリオに、あのニワトリはあとで食べるの? と聞いたら、「いや、神に捧げたものだからヒトは食べない。このまんまにして帰るんだ。問題ないよ。あとでイヌが来て片付けるから。イヌはいくらでもいるからね」。

生け贄はニワトリにとって受難かもしれないけど、ヒトに飼われることでニワトリは外敵から守られて、遺伝子を残していく。ヒトが幸せを叶えてもらうために、神にニワトリの命が贈られ、神の召し上がった残りをイヌが喰って命をつなぐ。イヌはヒトのために夜、ニワトリ泥棒がくれば追っ払ったりして番をする。

ある種の男はダンスを捧げ、女に願いを叶えてくれとせがむ。寛容にもその願いが聞き入れられると、この手の男は、ほんの一握りの愛情で女にすべてを捧げることを強要する。ニワトリはこういう男と違って、すべてを得ようとなんかしていない。死に際して何も望んでいない。だから、踊ったりしないのだろう。

*1:2/7(id:MANGAMEGAMONDO:20040207)参照

*2:2/5(id:MANGAMEGAMONDO:20040205)参照

*3:これをどう感じるかは人による。『マヤ文明 聖なる時間の書―現代マヤ・シャーマンとの対話』の著者、実松氏は著書の中で「生理的なものであろうが、あまり気持のいいものではない。」と述べている。