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apo (id:MANGAMEGAMONDO) が妄想を吐き出していきます。

恐怖のタネ

id:kmiuraさんの4/30の記事(id:kmiura:20040430)を読んで。コメント欄を汚してしまいそうだったので、自分とこで今思うことをまとめてみることにしました。

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apoの頭の中では「ムラとクニ」の話に至るずうーっと手前で止まったまんまだ。それは自分の立ち位置と受けとる情報に対して矛盾と恐怖を感じているからで、とても「ムラとクニ」の理想を語るところまではゆけずにいる。その恐怖は、大きく分けて二つある。

たとえば、2ちゃんねら、メディア、政府などが、人質、人質の家族、自衛隊江角マキコなどをバッシングする。次にバッシングする集団(2ちゃんねらー、メディア、政府)を今度は別の集団がバッシングする。このとき、二つのバッシングしているグループを“わたしでもあなたでもない”存在として、別のグループを叩く。バッシングのみならず、批判にしろ、共感にしろ、すべて恐ろしいくらいに“他人事”だ。これが一つ目の恐れ。

メディアなり政府なり批評家なり情報を送る側は、ネット上の発言にしろ、視聴者へのインタビューにしろ、識者のコメントにしろ、都合のいいように自分の主張に合わせて世論をつぎはぎする。それを「編集」という。そして、バッシングの対象を“あなたでもわたしでもない存在”として、遠慮なく叩く。“あなたでもわたしでもない存在”だから、情報の送信者側にも受信者側にもストレスはない。現在、氾濫している情報は、すべて食べやすいように加工されたインスタント食品だ。

ところが、事実は違う。“あなたやわたしが”2ちゃんねらーや、マスコミや、政府や、人質や、人質の家族や、自衛隊や、江角マキコになる可能性は恐ろしいくらいに高い。

ムラ社会で、アタクシ個人がウゼーーーーーと思うのは「アブナイ目に遭うからアレをしてはいけない、コレをしてはいけない」とやることなすことチェックを入れてくるところだ。だが、この長所はある。なぜなら、“危険性”という事実を事実として伝えてくれるからだ。ハネっ返るにしても、ムラを否定して飛び出すにしても、それなりの勝算が必要になる。

ところが今は違う。それもやさしく手に入る情報ほど、その危険性は伝えていない。知る価値のある危険性や事件の背景はそこになく、あるのは無意味な同情や不快感だけだ。口当たりや嗜好性の高さの影に、どんな薬物が混ぜられているのかわからない恐ろしさを感じる。そうして昨日まで“無関係なあなたとわたし”であった者が、勝算もなくチャレンジする。シャネルを着れば誰でも淑女になれる、ヴィトンを持てば誰でもセレブに見える、そんな簡単さ*1で。そして、足を踏み外す。その途端、容赦なく叩かれる。義理も人情も当然ない。無情だ。

もう一つの恐れについては、圏外からのひとことでふれられていた。

一般化して言うと、彼らは「弱者の特権を権力として濫用した」ということです。家族を人質に取られた人は弱い立場です。まともな神経の持ち主なら同情するし、できることがあれば助けてあげたいと思う。そういう人を叩く人間に対しては「何てひどい奴だ」と攻撃する。それは人間として当然の感情です。

ただ、その感情を悪用するとそれは権力として使うことができる。弱者が権力だと言っているのではなくて、弱者が弱者であることそのものを権力として使うことができるです。

そんなタチの悪い弱者はめったにいないのですが、弱者の回りにはその権力を利用する者がむらがってくる。そういうタチの悪い奴がまとわりついてくるのはよくある話で、むしろ普遍的にあちこちにあります。

当然ですが、これは二重の悪事です。

まず、第三者に対する不当な権力の行使です。弱者を隠れみのにすることで、多くの第三者に不当な圧力を加えることになります。

さらに、そのことの反動が弱者に向かい、間接的に弱者に攻撃を受けさせることで、弱者にさらに追いうちをかけることになる。弱者に対する裏切りでもあります。

今回の事件にも、この構造が典型的にあるのではないかと思います。

「女性のエンパワーメント」を訴える男のインチキさもここにある。4/2に書いた不条理な女の行動と主張もそうだ。弱者のフリをして強者になりかわる暴力。それはヒステリックで破壊的で、しかも破壊のあとに何も産まない。そんな逆ギレ上等!のムードを感じる。apoが、いちばん最初にこれを感じたのは、旧社会党のマドンナ旋風のときだ。土井たかこ党首が憲法9条を死守すべしとして言った有名な一言「ダメなものはダメ!」。これほど、怠惰で暴力的な思想があるだろうか? 社民党がどうなろうと知ったこっちゃないが、あの一言は、この国における“平和主義”を、自民党に蹂躙される“カワイソウな存在”に貶めてしまったのだ。その罪は大きい。政治家が、まともに国民に理解されようという姿勢を見せなくなったのも、このあたりから顕著になったような気がする。細川内閣はよくわからない新しさというムードだけで無意味にサワヤカに崩壊し、小渕首相はブッチフォンと愛嬌で次々にデカイ法案を通した。

他人事感覚と弱いフリ。そんなコーティングが施された情報のぬるま湯に浸かりながら、だんだん温度をあげられて、気づかぬうちに死んでしまうカエルのようにカエル未満のように、この国は死んでしまうのかな、と恐怖する。

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この二つの罠にはまって思考停止する恐ろしさを前にすると、「ムラかクニか」という議論はただの符合付けでしかないのです。

*1:この大嘘に気づかないようにしている者がいるとしか思えない。それは“市民”でなく“情報消費者”を産むものだ。