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apo (id:MANGAMEGAMONDO) が妄想を吐き出していきます。

ライプツィヒ・天使の詩(1)

天使はどこで何を守るのか*1

サッカーとビールでほとんど観光しなかった(ハノーファーのタクシーの運ちゃんからは「フット・ビール」と評された)今回のドイツだけど、行きたかったところがある。ライプツィヒの聖ニコライ教会だ。ライプツィヒの教会といえば、おそらくバッハが眠る聖トーマス教会のほうが、人はたくさん来訪するだろうし、実際、ライプツィヒでくれる無料の市内地図でも聖トーマス教会のほうが観光名所的に扱われている。けれど、ここ聖ニコライ教会は特別だ。

観光はしてないけど、教会は違う街を訪れるたびけっこう足を運んでいた。脳で理解するよりも、心で感じる部分が大きいから、ワールドカップみたいに感受性が高まっているときはちょうどいい。

ドイツの教会のほとんどは、天使がいない。尖塔を飾っているのは天使じゃなくて、風見鶏だ。これは、農業が主幹産業だったことがうかがえる、第一次産業にとって重要な気象観察、それに勤勉さの象徴の意味もある。そして、領民は保護されていたのだろう。たとえ領土の覇権争いが王侯貴族の間で繰り広げられていたとしても、教区を誰の領土にするかは教会に指名権があって、武力でどんなに勝っても、おそらく政治的な勝利を得ることはできなかった。そのため戦禍が領民や田畑に及ぶことは、比較的少なかったんじゃないだろうか。

そんな教会の政治力の及ばない戦いがくり返された歴史がある場所には、天使がいる。たとえば尖塔で輝く勇ましいミカエルは、モン・サン・ミッシェル(名前からして、聖ミカエル山だし)ではノルマンディーからドーバー海峡をはさんだ彼方の敵国イングランドをにらみ、ディジョンではパリのフランス王朝に立ち向かっている。さらに、蹂躙された過去のある土地では「最後の審判」でお馴染みの天使ラファエルが祝福のラッパを吹き鳴らしている。天使が象徴するのは、決して愛でも平和でもない。中世においては、自立のためならば抵抗も戦いも厭わないという強い意志の象徴だった。

もちろん宗派や文化の違いもあると思うけど、ドイツの教会は、天使に守護を求めてない。その分、なんか人間臭い。たとえば、厳かな空気が流れるニュルンベルクの聖ローレンツ教会は、今回めぐった中では好きな教会の一つだけど、ゴシック様式のアーチとアーチの交差点までこれでもかというほど装飾をほどこし、説教台は日光東照宮に負けない細かい彫刻で天井まで覆われている。この教会を見て「バベルの塔を造ったのは実はドイツ人じゃないだろうか?」と思った。神性には頼りません、人間力でいきます、という意気込みとか、気概みたいなものが何か伝わってくるのだ。

とくに象徴的なのが、リンゴを手に持った聖母マリアだ。人間の原罪の象徴であるリンゴを聖母は生まれたばかりの乳飲み子イエスに見せて、与えよう、教えようとしている。これを最初に見たとき、わたしは驚いた。ハノーファーの教会には壁に大きな六亡星が刻まれている(魔よけだ)し、死神や怪物がファザードに彫刻されている。内部にはタロットカードのXIII死神にも似た宗教画が飾られた教会もあった。これらはみな、「一歩、いや半歩でも人の道を踏み外せば地獄に落ちますよ」という警告だ。さすが、免罪符発祥の地だ、と思った。こういうイメージ戦略もあって、おそらくドイツの教会は宗教改革にも、経済改革にも成功したんだろう。

すでにライプツィヒから話は遠く離れているけれど、もう一歩道を外れてうがった目で見てみれば、ドイツの教会のキリストの十字架像には茨の王冠がないものが多い。言うまでもなく、茨の王冠はイエスがローマ兵から「ユダヤの王」と罵られてかぶせられたものだ。

ブレーメンで電車で乗り合わせたドイツ人との話で教会ネタになった。
「ドイツの教会は人間的ですね(キモイですね、とは言えなかった)」
「え?福音派(エバンジェリスト)のこと?」
「イエイエそうじゃなくて、あの、マリア様がリンゴ持って幼子抱いているのがかわいいな〜って思いまして……エヘヘ」
人のよさそうな老婦人は「そうでしょう?そうでしょう? わたしも大好きよ」とニコニコ顔で「お嬢ちゃんは、クリスチャンなの?」と尋ねてきたので、「いいえ、仏教徒です」と答えて、電車を降りた。

さて、じゃあライプツィヒに戻ろうか。

*1:このテキストは何のチェックもしないでアタクシの思い込みだけで書いております。そのため事実と違っているかもしれませんが、どうぞご容赦ください。でもご指摘いただければ、帰国後に加筆・訂正するかもしれないし、しないかもしれません