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apo (id:MANGAMEGAMONDO) が妄想を吐き出していきます。

フィデルもエルネストが恋しいか?

チェ 28歳の革命

新年会の打ち合わせで電話した友人が朝から落ち込んでおりましたので、「では、元気づけてやりますから、とっととエンジンかけて迎えに来やがったらどうかしら?」と提案してみました。生意気なことに「オマエがこっちに来るか、オレがそっちに行くか、じゃんけんで決めようぜ」とムダな抵抗しやがりますの。コンディション・ダメダメなくせに。

「勝っても負けても、結局、アタクシの言うこと聞くことになるの。わからない? OK。じゃ、仮にアタクシが負けたとしましょう。『今の後出しジャンっ!!ズルーイ!!』ってバズーカ撃ち込まれたら、今のアナタに戦闘維持できる自信ありますか? ないでしょう? だから、無駄な抵抗をやめて、とっとと投降しちまいなさいってゆっているの。殺し愛はもうたくさんです」。

1時間後、「悔しい、実に悔しいぞ」とボヤきながら、すっかり戦闘不能に陥った友人が迎えにきました。素直に癒されるのがかなり悔しいとみえて「ゲバラの映画やってるけど、観に行かね?」。ゲバラ好きのアタクシは、この案に一も二もなくノリました。

ゲバラ映画といえばガエル君が好演した「モーターサイクル・ダイアリーズ」の多幸感が蘇ります。まだ「チェ」とすら呼ばれていない時代の夢いっぱいロードムービー。ガエル=ゲバラの「フーセル」と呼ばれた熱血のエッセンスに悲壮感はありません。観客は、その魅力にただただストレートにノックアウトされて快感でした。今回のストーリーは、このあと、旅を終えたゲバラメキシコシティカストロと出会うところからスタートします。軍資金も、兵も、船も、「ない」「ぼちぼち」「これから」。「バカ」「正気の沙汰でない」「オレもな」「オマエもな」と意気投合した若きエルネストとフィデルは、グランマ号でキューバ東岸へ上陸。ゲリラ戦を続けながら、サンタ・クララまで攻め上がり、ハバナ入りを果たす前夜までのサクセスストーリーです。

だけど、まったく夢がありません。場面は、のっけからエルネストの窮地、喘息の発作に見舞われたジャングルでの戦いのシーン。咳き込みながら、声と動きを殺してバティスタ政府軍の山狩りをやり過ごす、死と隣り合わせの行軍です。「何のために戦うのか」思考し続けることを、いつやめたっておかしくない、そんな状況下での戦いの勝敗を分けるのは「戦士の精神のレヴェル」だと、エルネストはのちに著書で触れ、インタビューで答えています。その姿――1964年、キューバ工業相として訪米し、国連やアメリカ機構会議での演説やインタビュー――が差し挟まれながら、重苦しい空気が劇場を侵攻していきました。

ゲバラの英雄譚を観ているゲバラ好きなのに、劇中くり返される「勝利か死か」を聞くたびに、こんなに辛いのはなぜでしょう? これはテストだと思いました。「生と死が文字どおり隣り合わせの、このプレッシャーの中で、人間らしく生きる自信を持ち合わせていないワタシ」に対して、この映画は「オマエなら、どこまでできるか?」と執拗なまでに問いかけてきます。アタクシは降参です、「無理です。勘弁してください」としか、答えられません。

「世(ラテンアメリカ)のため人のために」という崇高な情熱がアクセルならば、エルネストの致命的な謙虚さはハンドルです。己の欲求を曲げてでも、モチベーションを見出して即行動に入り、そして高速で達成させるのです。たとえば「前戦で闘いたい」のに新兵訓練を命ぜられると「たとえ左遷であっても、フィデルが『必要』といったなら、そこに意味があるはずだ」と価値を見出し、成果を上げてしまう。もっとも、戦争という破壊活動の中での、教育という創造活動は、エルネストにとって最高の舞台だったのかもしれません。闘いが終わったあとのキューバでの国づくりもあんなカンジだったのではないかしらと思いを馳せられたことは、ささやかな幸せでした。エルネストは「赤いキリスト」なんかではありません。だけど、謙虚さというハンドルが、情熱と創造性をあらぬ方向へ向けるのです。こんなに意識的に人が人を愛する人が幸せになるなんて無理です。フェロモンでも、ワケのわからない衝動でも、意地やメンツによる執着でもなく、どうしてそんなに愛せるのか、ラテン系のくせに。いっそ、ただのラテン男であればよかったのに……どうやら、この悲しい予感は的中するらしく、後編の彼の死の場面では、カンヌの客席からは悲鳴が起こったそうです。

もしも、ボリビアでのエルネストの処刑に際しての言葉やそのエピソードを知っている人なら、なぜ、どのようにして、それが生まれたのかを実感、納得させられると思います。漏れ伝わってくるフィデルとの齟齬もきっとあったのでしょう。けれど、たとえそれがきっかけだとしても、本質の部分で、エルネストという男が、自分を死へ追いやった理由――それが、このサクセスストーリーのいたるところにちりばめられています。そう感じるのは、アタクシがロマンティストだから(それは否定しないけど)、だけではないと思います。

監督は「セックスと嘘とビデオテープ」「エリン・ブコビッチ」のスティーヴン・ソダーバーグゲバラを演じた「ユージュアル・サスペクツ」「21グラム」のベニチオ・デル・トロと組んだ「トラフィック」でアカデミー賞を獲りました。エルネストはそう遠い歴史的な人物ではありません。二人とも、生前の彼を知る人物から話を聞くチャンスに恵まれたことは幸いだったと述べています。フィデル・カストロも含めて。

今年、2009年の、キューバ革命50周年を待たずして、フィデルは第一戦を退き、実弟ラウールに託しました。いったい何を託し、何と闘ってきたのか――フィデルは誰かにその答えを尋ねたいのかしら? この映画を観て、そんなふうに感じました。ほとんど妄想ですけど。

エルネストが「必要不可欠な人物などいない」という一方で、フィデルは「『司令官』と書け」とエルネストに命じます。フィデルは、同志エルネストを愛の殉教者にしたくなかった。でも、なってしまうこともまた、わかっていたのではないでしょうか。

こんな重い映画を観たあとまで、前述の友人は「ホントに今日のオマエは、ズバズバ来るね〜」とヘラヘラしてやがりますの。軽くムカつきまして「どこまで弱ってンだよ!?」とつっこんだら、それに答えるように爆笑して「じゃあな」と消えました。そのときのアタクシには、友人を元気づける力なんて、もうこれっぽっちも残ってなかったのです。彼のような物わかりのよい友人・好敵手をもって、アタクシはほんとうによかったと思います。

だけど、あの時代のラテンアメリカに生まれなかったことを悔やみます。エルネストをもっともっとそばで観てみたかった。観ていたかった。フィデルが羨ましい。おそらく月末には、後編「39歳 別れの手紙」を観に行って、予想どおり、したたかに打ちのめされているに違いありません。