[ _e_x_h_a_l_e_ ]

apo (id:MANGAMEGAMONDO) が妄想を吐き出していきます。

ひとりぼっちの心がまえ

みなさまご存じのとおり、頭が虚弱体質のアタクシには残念ながら"経済"ってナンのコトやらサッパリですの。ですけどもね。"当たる占い師"ってのは、スゴイわかりますのよ、ものスゴく。なんでかってそりゃカンタンですわ。予言が起こったかどうか確かめればいいんですもの。たとえば、2年前に行なわれたこの対談。どっちがアタリでどっちがハズレか、お脳にアンチエイジングが必要なアタクシにも丸わかりですわ。余談ですけど、よく時代劇の最初は善人風で登場して、後半から「カワイソウだが、ここで死んでもらうぜ。フェッフェッフェッ。親を憎むんだな」ってキャラ変更しそーな元官僚のミスターナンチャラとかいう方も、最近、このアタリ説を持ち上げてらっしゃいましたわ。たしか、以前のご主張とは逆の「ドル斬り・アメリカ斬り・アジア基金創設! フォ〜!!」なんですけどね。

ウブじゃダメな"トランスナショナル"

どうでもいいけど、前置きが長すぎますわ。これもいわゆる一つの「ババァのメンス」ってヤツなのかしら? あ、わかった。こういうムダ口がいけないのね。

まあ、ともかく、アタリの方のお説では、グローバル化によって、ナショナルな意識からトランスナショナルな意識に向かうそうですの。なによ、その"トランスナショナル"って? 

そもそも、それより短い"ナショナルな意識"さえわけわかめですもの。たとえば、「ニッポン人に生まれてよかったby永谷園」を、2ch辺りのネット右翼の方々は、ご自分のアイデンティティの拠り所にされている一方で、レフティな方々も、「国家・国旗」を否定することで同様にアイデンティティを補完するみたいな。結局、右も左も、ナショナルな意識を基軸にしてらっしゃるわけですわよね。そんなグルーブ感捨てて、そこからトランスするって、大変じゃない? けっこう仲良しそうなのにカワイソウ。

と、胸を痛めておりましたら、大先輩大和撫子の文章を読み捨てる前の『文藝春秋』で発見しましたので、個人的に忘れないように気に入ったところを見つくろって引用しておきます。くたびれたんで、あとは野となれ山とな〜れ♪と。

一人ぼっちの日本
塩野七生(作家・在イタリア)

しばらく前のことらしいが、歌手の加藤登紀子さんが言ったそうだ。
「日本という言葉を発するときにたえず嫌悪の匂いが私の中に生まれる」と。
それを伝え聴いたときに私は、心底から彼女がうらやましくなった。日本にずっと住んでいると、その日本を嫌悪するという贅沢まで許されるか、とそう思ったからだった。

かく言う私だって、最近の日本のリーダーたちには絶望している。十一月いっぱい次の本造りで日本にいたが、世界中が激動した十一月の日本の政治の混迷は、だらしないの一言につきた。といって男がダメなら女が代わるかというと、その女たちがお一人様症候群に犯されてか内向きで、とうてい男に代わって日本を引っ張っていく状態にない。だから私とて憤慨はしているのだが、嫌悪だけはする気になれないでいる。

ローマ・オリンピックと東京オリンピックの間がイタリアの土を始めて踏んだ時期だから、私の日本の外での暮らしは四十五年になる。この四十五年は、チネーゼ(支那人-ママ)か、と呼びかけられるのが普通だったのが、ジャポネーゼ(日本人)ですね、と誰からも言われるようになり、それで定着した時期と重なった。これからはまたチネーゼにもどるかもしれないが、今のところはまだ、ジャポネーゼでつづいている。というわけで、日本の力の上昇を、肌で感じつづけた四十五年であったのだ。

この私が日本を嫌悪することができない理由は、日本に住む有識者たちがよく言う日本の特殊性にはない。私の見る日本は、「特殊」というよりも「一人ぼっち」の国なのだ。世界機構の活用から宇宙への参加のしかたまでが示しているように、日本のやり方は、アメリカやヨーロッパの国々とちがうだけでなく、中国やインドともちがう。しかもこのちがいをどの国も尊重してくれないので、損ばかりしていることになる。

「一人ぼっち」の国になってしまった要因の半ばは、政治家たちの失政、と言うか戦略の欠如にある。だが残りの半分は、日本という国の宿命ではないだろうか。
 他のどの国よりも近い存在であるはずの韓国の人々のある種の振舞いですら、日本人には死んだってできないことがあった。それは、長年にわたって中国というプレッシャーを感じずには生きてこれなかった韓国の人々の想いを、単に海が横たわっていたというだけで共有する必要がなかったからにすぎない。

また、他国を支配下に置いた歴史をほとんど持っていない日本人は、殺(や)らなければ殺られるという恐怖にも無縁で生きてくることができた。それはそれでけっこうなことだが、半面、殺られる場合を予想しての対策の必要性にいっこうに目覚めないという、日本のリーダーたちには顕著な性向を育むことにつながったのである。この日本では、戦略とは軍事上のことだと思われ、辞書ですら、ストラテジーとは戦略でもあることを明記していない。

外から見る日本は、かくもウブな国なのである。どうやったら、嫌悪することができるのか。かわいそう、と思うしかないのではないだろうか。と言うわけで性こりもなく、日本に向って訴えつづけている(..)

石油があり民主主義化するという目的もありながら数千の犠牲者でたちまち浮き足立ったアメリカが、石油もなく民主主義化の必要もない日本の防衛に自国の若者の命を犠牲にすると感じるのは、もはやウブを超えた状態だと言いたいだけである。

文藝春秋』2009年2月特別号より。